昭和45年10月01日 朝の御理解



 御理解 第65節
 「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というのは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え、と。」

 天地の中にある働きというものを、私共が分からしてもらえ、体得させて頂いたら幸せになる事。おかげを受けると言う事はもう自由勝手たるべしと、言う様な感じが致しますね。ですから先ず、天地の中の事、天地の親神様の事、その御心が分からして頂いてから、私共が自分に都合の良い、ほんぞらぬくい、自分に都合の良い日がよい日柄じゃと言う所のね、頂いておりますと、本当に自分に都合の良い、いわゆる人間の幸福というものと、天地とのつながりというかね、というものをここに感じます。
 ですから、信心の稽古をさして頂いて、何故、日柄方位など見るにおよばんのかと言う事になる。過去の人間の世界ではそれも無い事ではありますけれも、例えば、支那の辺りから来た一つの学問の中に、日柄とか方位とか、いわゆる暦の上に出て来る様な、いわば天地の中の一つの仕組みと言う様なものをです、人間が造り上げた、そしてその良い日とか、悪い日を定めたりした訳ですけれどもね。
 それにはいわゆる、こうしたら人間が不幸になる、こうしたら人間が不幸になる、と言う様な事が印されてある。だから暦を見ていけば、人間はみんな幸せになれれる様なというのが、矢張り暦に習わされて来る事。いわゆるここにも天赦日じゃと言う様な、ね。今日はいうならば大安吉日だと言う様な、なら本当にその良い事ばかり、目出たい事ばかりが起きて来るかというと、そうではないと言う事実をね。
 お互いがまず突き止めたらです、日のお照らしなさる日に、ね。良い悪いはないと思わして頂けれる信心。いかに天赦日じゃと云うても、ね。いかに、大安吉日じゃというても、ね。雨風が強うては、ね。不祥のお天気じゃと言うではないかと、こう仰られておる。いと簡単に、天地の働きと言う物がです、人間の幸せ不幸のそれにつながる。だから、そこのところを体得さしてもらう。
 そこからですおかげを受けてゆく、いわゆる、自由勝手たるべしと言う様な感じのする御教え。だから、その自由勝手たるべしの、おかげを頂かして頂く為にです、その私共はいよいよ天地の事訳、天地の道理をです、いよいよ分からしてもらって、それに従うた生き方、焦点の間違わない、焦点をもっての、生き方を、させてもらわなければならんという事になります。
 只ここには日柄方位を見るにおよばずと仰るから、金光様の御信心をすれば、日柄方位もないというだけの事ではない。それと日柄方位を見るにおよばない様にです、私共のいわば生活の上におんなじ日柄方位を見ておる事が、天地の中の働きに人間が筋金を引く様なものでありますから自分の考え、自分の都合だけで事を運んだりすると言う事はどんなにこれは間違った事かと言う事を一つ知らなければいけませんね。
 今月の信心の焦点を、先日頂きたいと言うて、空閑さんが見えました時に、頂いたのは、私は今日ここの所を読ませて頂いて、ああここに天赦日と言うのがありますね。「暦を見て天赦日じゃというても」というとこが。この天赦という同じ字で「天赦願」と言う事を頂いた。「天赦願」願はねがいですね。願いをかける願い、神様に許された願いというのです。だからどう言う事でも願うて良い、どう言う事でもいうなら、なんでもどう言う事でも願うて良い。
 しかも神様に許されて願うのだという風に、思うとりましたけども、天赦願というのは、神様に許された願い、と言うとなんでもかんでも、無茶苦茶にと言うものではない、何でもであっても無茶であってはならない。そこには、ちゃんと筋道を立てた願い、これなら神様が許されると思われる願い。中々自分のお願いをさせて頂きましても、果たしてそれは神様のお許しを頂けておる、頂ける内容をもっておるかどうかと言う事をね、確かめなければならん。
 昨夜大和さんの所の今度大風で工場が倒れておりました。それでその工場を今度立派にとても大きい畳屋さんですから工場が建ちました。その報告祭が御座いました。お母さんとそれとお父さんとの丁度式年祭にあたっておりましたから、合わせて式年祭も仕えさせて頂きました。それで同心の方達いわば菊栄会の会員ですから菊栄会やら菊栄会の方達をご案内してありましたから。
 殆ど全員が集まってお祭りを頂いた訳です。帰りましてから丁度昨日、三十日ですから、ここで丁度ひと月の信心のお礼を申し上げさせて頂く。そういう意味でここで輪をかいて親話会が毎月あります。その親話会が半ば進んでおる所に帰って参りました。どう言う様な事を今日、今晩のテーマで話しておられるかと云うて聞きましたら「今月の焦点である所の」先月ですね。
 「先月の焦点である所の全ての事をを有り難う御座いますと、受けていけれる自分になろうと言う事」だったんですけど、そういう受け方がどの程度、お互い出来たであろうかと、仕事の事を有り難う御座いますと受けていったが、果たして十の事をどこまで有り難う御座いますと受けていったであろうかと、ひと月を振り返って、まあ自分の十点満点とするならば、何点位自分はとったであろうか、果たして落第点であろうか、合格点であろうかと、言った様な事をまあ丁度皆さんが発表しておられる時に帰って参りました。まあ、ついでながら皆さんどうだったでしょうか。
 先月はいよいよ有り難く受けさせて頂ける、全ての事を何事も全ての事を有り難う受けさせて頂けれるおかげを受けたであろうかと。まあ余談になりましたが、昨夜はそんな風でした。それに丁度、竹葉会の連中がみんな一緒にま丁度11時からですから、11時まで色んなお話をした後に、私菊栄会だった事もある信心のお話を聞いてもろうたんですが。 その中で、久富正輝さんがこう言う事を言うておられます。
 「先日、親先生のお話の中に、甘木の初代の親先生は、偉いお方であったなと」と言う事はね、信者の中にもう一切があなたの御物と分かり込ませておられる、信者が沢山ある事。例えていうと、平田さんとか、または福岡の呉服町と云う所の近くに大丸という家具店がありますが、有名な方です。あの方達がもう親先生が何時でも、例えば金がいる、例え自分の所の物がいると。
 仰るなら何時でもそれにのしがつけられておる。どれだけ沢山の金を持っておっても、親先生がちょっとそれが平田さん要るばいと仰れば、「はい」と云うてその持って行けれる。いわゆる、親先生のおかげで、これが頂けておるんだと、預かり物の様に、それを思い込ませてある。そこまで信心が育てておられると言う所に、甘木の先生は偉大なお方であったなというお話をしたんです。なら、ここでも間違いなしに、おかげを受けておると言う人は沢山ありますけれども、おかげを受けたら自分の物。
 まあおかげとも言わん、自分が働き出したごたる風な、言い方をする様な人が沢山ある。こっちの教導、育て方が悪い証拠だと、これは又、私自身が反省させて頂いたんですけれども、頂いておりますけれど、本当に一から十まで神様のおかげを頂いてと思い込めれる信心を、私は信者が育つという事がね有り難い。例えば今日の「天赦日」とこう言う様な言葉を使ってある。それは私は今日は今月の焦点である、天赦願と言う事、例えば全てがあなたの御物だと言う事が本当に分かり切ったらですね。
 分かり切ったらそれこそなんでもかんでも、例えば自由勝手たるべしと言う様な、願いをしてもいいと思うんですね。どんなにの人がお金をくれというからお金をやっても、物をくれというから、女に物をやっても、もうその物やら金やらがです。絶対、お粗末になる事がありませんものね。丁度、いわば甘木の先生は偉大な方であったな、だからなら、そう言う様にです、全てが神様の御物だと、本当に頭で分かっただけではなくて、心の底から分かっておると、まあここでいうならば、なら私神様がいうなら。
 このお広前が全部必要だと仰られる、その場合何時でもこのお広前に、ここにある物全てにのしをつける事が出来るでしょう。だから私は、私はなんでも願ってもいいっていう感じがします、ね。なんでもかんでも、願えれる。だからそういう大変な例えば事を皆さんが本当に分かられると言う事はです、いうならば天赦願というのはピッタリ来るようですね。その人が願われる所、そこにはもうそれこそ、何を願われても良いと言う事になる。所がそこまでの信心が出来ずして、なんでもかんでも願えと仰るから。
 なんでもかんでも願う。願ってもね、いわゆる天赦、神様に許された願いというのは、願っても良いが、その願いに一つの、ま条件があるとこう言われてあります。そこで私共がこういう願いならば、神様が聞いて下さるという、焦点をねはっきりして、いわばなんでもの願いになって来なきゃならんと事になります。久富さんがその事を話しておられます。この御造営がいよいよ始まった時に、文男先生と二人で話しました、ね。本当に御造営に沢山な費用が掛るが神様にお願いをして。
 本当に一千万円のおかげを頂いたら一千万円のお供えをさせて頂こうと言う話をした。神様にお願いさせて頂いて、ね。これから何年、ま二年間か、何年かかってですから、その間に神様に一心にお役に立ちたいという願いを立てて、そしてお金が儲かったら、そのお金は全部神様にお供えさせて頂こうと決めたけれど、その事が出来ていなかった事を後悔いたしておりますと。相すまんと思うとりますと言うております。
 だから私は申しました。例えば今の信心なら、願え願えと仰る願いの信心の今ならば、それは正輝さん文男さんの言う信心の願いというものはもう本当に神様を感じさせる程しの願いである。神様がいうならば有頂天になってこちらの方を向いて下さる願いである。所がそれが如何にも殊勝な事であり素晴らしい事ではあるけれども、なら合楽の三年前、四年前の信心ではです今の事では、神様が正義さん達の方を向いて御座らんりわけ御造営が始まってから沢山のお金儲けもさせちゃ御座らんと言う所にです。
 いわゆる三年前四年前の信心と現在の信心の相違を感じますと言う事です。それならその三年前、四年前の信心を合楽ではどう言う事だったかというとですね、お役に立ちたい一心で願うと言う様な事ではなかったんです。自分は力がない、けれどもお役に立ちたい一心がどうぞ、一千万円でも、儲けさせて下さいと言うてもです、そういうその事には、神様は見向きもされなかった。
 そういう例えばです金でここの御造営、お広前を成就しようとは思うとらんと言う様な、神様の思いであった。ここに御神縁を頂いとる信者氏子がもういよいよ和賀心にならせてもらえる、愈々豊かに限りなく美しゅうならせて頂くと言う事に焦点を置いてその豊かな心麗しい心、所謂和賀心に願わんでも頼まんでも、頂けれるそのおかげを持って、このお広前は建立しようというのが神様の願いであった。
 願いの焦点が違うでしょうが、だから。そこで文男さんと、正輝さんが話し合ったような事がです、今日の合楽の信心に持って来られたら、これはもうピッタリする、いうなら神様がね、もうそれこそ、こちらを向きなさらんはずが、もう向きかけて御座るのじゃけん、向いて下さる様な、今は合楽の場合、そういう信心が、そういう時代になっておると言う事なんです。
 だから四年前に願う事、只今願う事、たとえ同じであっても、違うと言う事が分るでしょ。そこんねきが分かるでしょうか。神様はね、例えばね、だから私は合楽のこれからの信心と云うのはね、そう云う例えば正輝さん達が三年前、四年前に文男さんと話し合ったと言った様な、そのお互いが話し合いが出来て、これは家族中ででも、お互いが信心の者同士でも、どうでも次の合楽の比礼、発展の為にです、願おうじゃないかと、例えば、腹を決めて願うならばです、その願いが成就する。
 何故かというと、いわゆる私共が二十年間信心の稽古をさせて頂いて、二十年の間というものはです、神様が願え願え等とは決して仰らなかった。只、和賀心、和賀心、限りなく美しゅうなると言う事だけを、いうならば教えられた。だから、そのここには、願わんでも頼まんでもの、おかげであったと言う事、そのおかげがこのお広前建立というおかげになって来ておる訳です。
 ならその時に、例えば、その3年前のその二人の話し合いがです、3年後の、今日に持って来られたらです、それは素晴らしい事です。いわゆる神様を感じさせる、神様がいうなら、本当に喜んで、その事を聞き届けて下さる、働きになろうとしておるのが、今日の合楽の信心です。ここでいわば天赦日という事が、天赦願と言う事の意味が少し分かって来たでしょう。
 今朝私、お夢の中に「佐渡の金山」という事を頂いた。「佐渡おけさ」の有名な、あの佐渡です。「佐渡の金山」私は合楽教会の事だと思うた、ね。現在合楽教会にはね、いうならその、ここには佐渡のあそこに日本一の金山がある所ですよね。いわばそれの金山が合楽に、もう移行しておる、ね。ここに移り変わっておる。こっからは今、なんぼでも金が出て来るという訳なんですがね。私はそういう意味で頂いた、ね。
 と言うてですね、矢張り金山ですから、掘らずして、又は掘ったものを精錬せずしてそれが金になるとは思われない、ね。そして例えば今日の御理解を頂きましたら、六十五節、これはいわばお道の信心がいかにその迷信を打破していく宗教かと言う事がです。ここを見れば分かるけれども、その内容から、今日私ここから感じとらせて頂いた事はです、天地のことわけ、天地の道理、いうなら天地金乃神様の御心が分からして頂いて、その御心に添わして頂く事にならして頂く、そこん所を基本にしてですね。
 願えば願いがもう自由勝手たるべしと、いわゆるおかげは受け徳、受け勝という程しのものを今日、私はここの中から感じた、ね。今月、焦点になる所の、いわゆる天赦願。天赦願とは、どういう意味の事かと、神様の心が分かって神様の心に添うての願いである事、それが天赦願だと言う事、ね。合楽の上に、例えば三年前迄はです、今日私共が願え願えと言われておる、世のお役に立ちたい。
 神様の喜んで下さる様なお役に立ちたいの一心が、願いとなって来るならばです、言うならばどういうおかげでも受けられるという、いわば情勢下にある合楽。けれども三年前はそうではなかったと言う事なんです。三年前はまだまだいわゆる、信心の基本である所の和賀心とか、成り行きを大事にするとか、限りなく美しゅうならして頂こうと言う事にのみ、焦点が置かれておった。
 だから、そういう事に精進する者の上に、おかげが頂けた。願わんでも頼まんでも、そういう願わんでも頼まんでも、おかげを受けたのがこの御広前、合楽の御広前建立であった。まあ分かりやすくいうなら、だから、その時代にほんなら、合楽の御用に立ちたいから、ね。それは文男さんと正輝さんが話し合ったと言う、それこそ、一千万でもお供えさせてもらおうじゃんの、あんたと二人で、神様にお願いしてから、ご無理でもお願いしようといわば、けなげな話し合いをしたけれど。
 その時にはそういうお金では建てませんと、神様は云うて御座る。けれども今は違う。今は違うという意味が皆さん、分からなければ今月のね天赦願、ね。天赦願神様が願いを許される。その願いが出来る事になります。しかも願えばですね。「佐渡の金山」と頂いた事はいうならば、ここにはおかげの山がある、神様がもうおかげを見せびらかして御座る それで願いの筋さえ立てばです、神様がどの様な事柄でもです。
 それこそ何でもかんでもの願いを聞き届けて下さろうと姿勢を示しておられる、そういう姿勢を。そこで私共はね、いうならば神様が本当にね、ほとほと感心しなさる様な、内容を持った願いでなからにゃいけないと、いわゆる神様が願えば感じなさる程しの願いでなからなけりゃいかんという事になります。その例を三年前に文男先生と正輝先生が、二人で話し合ったという、例を持って参りましたですね。
 そう言ういわばその二人が願った三年前の願いが、今日持って来られ置き換えられるならばです、それこそ神様が感じなさらんはずがないと言う事です。今月そう言う所へですね、一つ本気で私共の願いの内容というものの焦点を置いて、それこそ、何でも願えれる為の信心の基礎とでも申しましょうか、を願いながら頂いていきたいとこう思います。先日竹葉会の時に竹葉会の会長であられます。
 秋永先生の奥さんがこういう発表をしております。お夢を頂きましたと。それがもう実にこう、とはん(黒板)に書かなければ分からない。丁度皆さんの頭の中に三角定規のね、を思うてください。三角定規、三角形になっておる。その三角形の頭の所へですね「荒江」という所があった。まあちょっと書いてみろうかな。こういう三角定規がここん所が、荒江という所です。
 それからここが佐賀という所、佐賀県の佐賀ですね、分かるかな、ここが荒江、ここが佐賀、佐賀というのは、いうなら今日の「佐渡の金山」にも通じ行く、あの合楽的信心の喜びという事をなんですね。イべんに左というのは、必ず御結界は左にあるから必ず、賀はいわゆる「和賀心」の賀です。喜ぶ、そしてここがね、こちらの角の所がね「うどん」という所じゃった、うどん、そばというでしょ。
 うどんなんてん地名があるはずないですもんね。けれどもやっぱりここはうどんという所じゃった。所がこの荒江の所からですね、この佐賀に行けと私が一生懸命に云うとる訳です。荒江という、ここの荒江の所には、合楽の御信者さん方、いっぱいそこにおられた、ち。又、先生が佐賀の方へ行け、佐賀の方へ行けとこういう言われるけれども、この佐賀の方へ行く道がねその、まだはっきりしていないという。
 だから、みんなが躊躇してから行なかった。そんならそげんあんたどんが、こっちゃに行きゃきらんならば、ならば、うんならちっとは曲がり道になるばってんこちらの方へ行けとこう言いよる所、こう曲がってそしてここはこちらの方にはバスがある。だからあのここの「荒江」から「うどん」ちゅう所までいって「うどん」ちゅう所から、こうまっすぐ行きゃ「佐賀」に着くからというお夢じゃったという。
 それから先、こりゃぁ秋永先生達一家が頂かなきゃならない事を頂いて、こりゃまたそれとは別ですから申しませんがね。ここん所をだから「うどん」と言う事は、これは代用食だとこう思うんですね。いうならそのまだ本当ではおかげの願え願えです。このバスでこちらに向いて行かなきゃいけない、それでもまだ尚且つ躊躇しておる。先月から願え願えというけどまだどういう風に願うてよいやら。
 それけん、今まで「和賀心、和賀心」ばかり言うちゃっとに願うち言うちゃっても、喉に引っかかって出ちゃこんちゅうごたる風な、まあ事で御座いましたよね。だからほんというならこの荒江からです、道はあるかないか分らんごたるけれども、道はなかなら造ってでもここへ行くっちゅうのが一番素晴らしい事です。ね、荒江から、荒江というのは、まだ合楽の場合、云うならば、一生懸命修行をしておる。
 人生にもまだ難儀をしておる、人間関係にもまだ楽じゃない、と言った様な事、この「荒江」という所で感じますね。そして本当にここの「佐賀」という所には、何かがあるかというとですね、ここに極楽浄土があり、宝の山があると頂かれたそうです。その事を先日発表しております。この「佐賀」こここそがね、云うならば私、今日申します、願ってね、その願いがねそれこそ、おかげは願う事も勝手たるべしであり。
 おかげを受ける事も、勝手たるべしと言う様な、おかげ。まあそれを言うならです、一切が、あなたの御物であると、自覚が出来て、願えばどの様な事でも願えれるという、平田さん、甘木の御信者さん方の、例を取って申しました。ところが合楽の場合はですね、このまだ「和賀心」というものが基調になっていない為に、おかげを受けると「成る程、おかげを頂きました」と思いよるけれども。
 しばらくすると、もう自分が働きだしたごたる風な、これは金のだけの事じゃありませんけれども、言う様な考え方に陥りやすい、まあ陥る。まだ油断はできんと言う様な信心があやふやな時代であった、という事なんです。今月のひとつ「天赦願」といわれる、その内容を又、今月はその事に取り組んで色々と検討される。又御理解を頂くだろうと思いますけれども、今日私が申しました。
 一番分かりやすい話は、文男さんと正輝先生がね、三年前のこの御造営の時に二人で話し合ったという事。けども三年前のそれは神様はそちらはそういう素晴らしい事を言いよるけれども見向きもして下さらんかった。まだまだ、まだ和賀心もない、信心もできんとにまだそんな、という感じがする。けれどもね、今日その願いが、三年前の願いが今日に持ってこられるならば、今の合楽の場合ですね。
 神様の方が感じなさる。神様の方がこちらを向いて下さると言う様な時であるという事。そういう願いが立てられる、信心をです、身に付けて行きたい。これはもう願いという事は一生涯の事ですからね、私共が。それこそ自由勝手たるべしという程しのおかげを受ける程しの事なのですから。矢張りその修行は大変な事だと思います。
 けどもそういういわば第一段階にですね、いうなら信心の最高峰といわれる願いの信心がここに打ち出されて来たと言う事は、有り難い事。だからそれをただ腕をこまねいとるだけではなくて、いかに金山、金の山の中に入っておっても、それを頂こうとする手だてを行じない限り、それは神様はおかげは下さらんという事になるのですよね。
   どうぞ